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2019.08.04/コラム
【 僕が出会った “にいがた総おどり” 】
近年、全国からご来場くださる方がどんどん増えている「にいがた総おどり」。
そんな「にいがた総おどり」とは、一体どんなお祭りなのか?
東京から毎年足を運んでくださるお一人の方が、語ってくださいました。
新潟出身、現在は東京で生活する日野さん。
「にいがた総おどり」との出会いは2年前だったそうです。
ぜひ、総おどりの会場に広がる景色を感じてみてください。
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新潟から上京して十年以上が経った。
同じところにずっといるだけでは分からないことがたくさんある、と気づいてきた今日このごろ。
地元から離れてみなければ気づけなかったであろうことに、帰省のたびに気づくことがある。
それは、
夕暮れ時の日本海の空の色が、深い青から淡い青へ変わるグラデーションになっていることだったり
新潟の山の木々の緑が、九州などと比べて濃く、深い緑色をしていることだったり
いつもの風景の中に、山々が見えることで感じる心の穏やかさだったりする。
そして、新潟の人が持つ「心根の熱さ」にも気づいた。
そのきっかけとなったのが、「にいがた総おどり」だ。
「にいがた総おどり」は17年の歴史を持つ祭りだが、ぼくがその存在を知ったのは2年前のこと。
それも地元から離れてみて気づけたことの1つ。
それまでぼくが新潟人に対して思うイメージは、
「がまん強い」
「新しいものや外のものに対して疑いやすい」
それが変わって「身内に優しい」
などがあった。
そのイメージの奥に、普段は表現されない「熱さ」が潜んでいたんだ。
祭りって独特の「熱」がある。
一人一人が持つ熱もそうだが、人数の熱、「人間」の熱。
人間が同じ想いで集まったときの熱。
それが体感できるのが祭りだと思う。
そして多くの日本人が小さいころから実はその「熱」に触れている。
自分でも忘れていた自分の中の深いところのなにかが、総おどりの踊りや音楽や雰囲気によって揺り動かされたのかもしれない。
特に、クライマックス四部作の「華鳥風月」は震えた。
総おどりは3日間にわたって開催される。
その中で自分たちが踊る1回(もしくは数回)のステージのために全国から踊り子たちが集まってくる。
新潟駅周辺の広場や商店街などで、時間ごとに各チームの踊りが披露される。
「総」と名前につくだけあり、よさこいからヒップホップまで、踊りのジャンルはさまざまだ。
そんな各チームの魂と熱気の残る会場で最後に披露されるのが、4部作「華鳥風月」だ。
とっぷりと日も暮れた最終日。
特別に用意された桟敷席から観ると、総勢500人の踊り子で商店街が奥の方まで埋め尽くされているのが分かる。
それはもう「たくさんの人」というより、「たくさんの人が集まった何か」だった。
ぼくは「華鳥風月」がつくる世界観、空間に引き込まれて他のことを忘れた。
「今を生きる」とよく言うが、あの感覚のことをそう呼ぶのかもしれない。
自分の感覚が自分の外側までどんどん広がっていき、逆に自分の内側の中心にどんどん集中していく。
ぼくは今までにいろいろな芸術作品と言われるものを見てきた。
クラシックバレエだったり歌舞伎だったり、演劇だったりミュージカルだったり。
それらにはそれぞれの凄みがあるし、美しい。
ある言い方をすれば「完璧」なんだと思う。
比べて「総おどり」はいい意味で「完璧」ではない。
それもそのはず。
総おどりの象徴的なプログラムの一つ、「華鳥風月」の本番前に全員でできるリハーサルは、全国から踊り子が集まるため、現在たった1回しかないのだ。
だけど、上手いとか下手とかじゃない、「人間」が持つエネルギーがそこにはある。
会場の商店街通りだけでなく、隣町まで町ごと動き出すかのようなうねり。
それがどんどんどんどん会場中央に集まって、最後には天に上がっていく。
このような「良いものを観る」という体験を多くの人に、個人的には特に子どもたちに観てほしいと思った。
小さい頃からいろいろなものごとのルーツや本質的なものに触れることは、とても良い教育になる、とぼくは思っている。
画面からじゃ伝わらない領域がある。
総おどりからは「体験」することの素晴らしさを感じることができる。
なんで「完璧ではない」のに、圧倒される凄みがあるのか。
まだぼくには分からない。
これからもいろんな角度で見ていきたいと思う。
にいがた総おどり 東京支部
日野正吾
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にいがた総おどり、会場に広がる光景を少し感じていただけたでしょうか?
今年の開催まであと1ヶ月。
一人でも多くの方々と、この感動を分かち合えることを願い、開催準備に励みます。
みなさま今年も、開催当日にご期待ください。